2011年7月24日日曜日

プリンストンでご近所の公共哲学について考える Vol.3


エイミー・ボロヴォイに聞く、ご近所の公共哲学!
小川仁志

──小川先生のプリンストンレポート第三回。今回は文化人類学者、エイミー・ボロヴォイとの対話です。哲学と文化人類学、アプローチは異なるお二人の目指すところに、はたして一致点はあるのか?


 今回は文化人類学者のエイミー・ボロヴォイ(Amy Borovoy)との対話をご紹介したいと思います。ボロヴォイはプリンストン大学の東アジア研究所の准教授なのですが、大学きっての日本通として有名です。実は今回彼女と対話をする前に、何人もの人から紹介を受けていました。もちろん日本での留学経験も豊富で、日本語も堪能です。

エイミー・ボロヴォイとご近所について語る

 彼女を有名にしたのは、『The Too-Good Wife(良すぎる妻)』というタイトルの著書です。これは日本の妻を通して、戦後日本の社会を分析した良書といえます。そんな彼女が現在取り組んでいるのは、なんと日本のコミュニティ分析なのです。それを聞いて、どうして誰もが彼女を紹介してくれようとしたのかよくわかりました。

 そんなボロヴォイと、例のごとく『日本を再生!ご近所の公共哲学』片手に、公共哲学してみました。まずボロヴォイがコメントしたのは、ご近所にこだわるというのが、いかにも日本的だという点です。たしかにアメリカ人は個人主義で有名ですから、あまりご近所を重視しているとはいえません。ただ、この本の中でも触れているのですが、2001年の同時多発テロの際、アメリカは国中がご近所のようになって助け合ったはずです。それ以来、ご近所の大切さに気づいたはずではなかったでしょうか。そのように問いかけると、ボロヴォイは、「1週間ほどはね」と返してきました。

 それでも引き下がることのできない私は、ロバート・D・パットナムの『孤独なボウリング──米国コミュニティの崩壊と再生』という本を引き合いに、アメリカでもコミュニティの再生が求められているという主張を繰り返しました。つまり、昔はコミュニティ対抗で行われていたボウリングが、今では個人が楽しむスポーツになってしまっていることからわかるように、コミュニティが衰退の危機にあるというのです。

 ボロヴォイはパットナムの主張に一定の理解を示しつつも、旧来のコミュニティをそのまま復活させることには批判的でした。というのも、コミュニティを維持するためには、日常誰かがその仕事を担う必要があり、とりわけ専業主婦がそれをやるということになると、ジェンダーの視点から問題が出てくるというのです。

 これに対して私は、高齢化の進む日本では、高齢者がその役割を担うことができるし、また、できるだけ誰もがコミュニティにかかわることのできる仕組みをつくっていく必要性があると訴えました。

 ここでわかってきたのは、コミュニティの再生が必要であるという部分については、ボロヴォイも賛同しているという点です。問題は、それをいかにして旧来の息苦しい共同体に逆戻りさせることなく行うかです。

 そこで、私の「シェアリング・コミュニティ」という提言について紹介しました。『ご近所の公共哲学』の中でも核となっている部分です。つまり、息苦しい濃密なコミュニティではなく、新しい親密さを伴ったコミュニティを構築するには、以下の三つの条件が必要だと考えます。(1)認知、(2)ミニマムな情報共有、(3)暗黙のコンセンサスです。

 昨年来の無縁社会問題や、このたびの災害時の助け合いを見ても、必要最小限のコミュニティの機能を回復することは、喫緊の課題といえます。その際、挨拶程度の認知が日頃なされており、向こう三軒両隣の家族の情報が共有されており、かついざという時には助け合うという暗黙の了解が相互にあれば、少なくとも人命が失われたりするような悲劇を避けることはできると思うのです。

 ボロヴォイにこの三つの条件について感想を聞くと、基準が曖昧な気がするという答えが返って来ました。そして、ややもするとこれらの条件は一線を越えてしまい、容易に旧来のコミュニティに逆戻りしてしまうのではないかというのです。なかなか鋭い指摘ですが、ではどうすればいいのかという質問に対しては、明確な答えがありませんでした。それほど困難な問題だということでしょう。

 それゆえに私は実践が必要だと感じています。基準は実践の中で磨かれるものです。公共哲学が単なる抽象的な学問ではなく、優れて実践的な学問だといわれる理由がここにあります。こういう困難な現実に積極的にかかわることではじめて、公共哲学は実を伴いうるからではないでしょうか。

 今日のボロヴォイとの分野を越えた対話も、そのような実践の一つといえます。哲学と文化人類学、アプローチは異なるものの、目指すところは同じです。よりよい社会をつくるために何ができるのか。また一つヒントが見えてきたような気がします。